2011年4月27日水曜日

中島義道『哲学の道場』


中島義道(1998)
筑摩書房


闘う哲学者中島義道による哲学の入門書。

目次
第1章 哲学にはセンスが必要である
第2章 哲学には暇が必要である
第3章 哲学には師と仲間が必要である
第4章 哲学には修行が必要である


メモ

そして、ぼくとしては、哲学をしている連中に対しては、ちょうど片言を言ったり遊戯をしたりしている人間に対する場合と非常に似た感じを受けるのだ。つまり、そのような話し方がまだ似つかわしい小さな子どもが片言を言ったり遊戯をしたりしているのを見る場合は、僕はうれしくなるし、かわいらしいと思う。・・・他方また、大の男が片言を言っているのを聴くとかあるいは遊戯をしているのを見るとかする場合は、それは滑稽で一人前の男のすることとも思えず、そんな奴は殴りつけてやってもいいように思われるのだ。77p

体験的「気づき」を伴わずにカントを呼んでも、それはカントとともに哲学したことではなく、ただカントの思想について何事かを理解した(気がする)だけです。109p

哲学とは、地上の多様な人間たちの営みを無視して常識から離れた奇奇怪怪なことを語ることではない。一見非常識な思索に明け暮れているように見えますが、意図的に非常識を目指すわけではないのです。112p

ニセモノの豪華さよりもホンモノの貧しさのほうがいいじゃないですか。自分をだましだまし死ぬより、絶望して死ぬほうがいいじゃないですか。そう悟ったら、後は簡単です。ハイデガーという座標系やヴィトゲンシュタインと言う座標系から「私という座標系」に座標変換すればいいのです。自分の実感を探り、自分の納得できないことを語ることをやめ、分からないことを分からないと素直に認めることを開始し、そして自分がなぜ哲学しているのか、よくよく何百回でも反省してみればいいのです。 136p

私はただいま「西洋哲学」という豪邸の広大な「カントの間」から、夜逃げしてきたところです。仲間たちは毎晩豪奢な宴会を開いている。しかし、私はその凝った料理にももう飽きはてました。高度の技術が要求されるダンスもくたびれました。高級で上品な会話もいやになりました。自分の貧しい家がある故郷へ帰ろう。そこでひっそりと庵を結んで暮らそう。そして、・・・私の貧しい庵で「哲学の道場」を開こう。こう思い立ったのです。138p

愛知者は「真理」に恋い焦がれる者なのであって、カントやニーチェに恋い焦がれる者なのではない。カントやニーチェの淘汰事をはじめから身をもって問い直すものであって、彼らについての知識を蓄え、それを世界に広め後世に伝えようとする者ではありません。 165p

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