2011年1月22日土曜日

勇気とは「それにもかかわらず」自己自身を肯定することである。ー 「生きる勇気」(ティリッヒ著作集9)読了

読み終わった。

メモ

第5章 勇気と個人化—個人として生きる勇気

135p確定することは難しいにもかかわらずデモーニッシュなものが創造的なものの根底となっているということの発見は、後期ロマンティークにおける発見であって、これがボヘミアニズムや自然主義を経て20世紀の実存主義へともたらされたものなのである。それを科学的な仕方で確認しているものが深層心理学である。

137pしかしかぎりなく具体的であるような現実に対してこのような方法を適用することは、きわめて不適切である。もしも人格的自己が計算や操作の事柄と化してしまうならば、それはもはや人格的自己であることをやめてしまう。

138p
他なる実存に自らの実存を持って参与するという意味において「実存的」といいうるのである。
人間状況の非実存的解釈は、人間実存の持つ有限性や疎外や意味不確定性を、認識や実践において超克できるものと主張している。ヘーゲルの体系は、このような本質主義の古典的表現である。キルケゴールはヘーゲルのこのような本質の体系から訣別したのであるが、そこで彼は2つのことをした。1つは、実存的態度を宣言したこと、他は、実存の哲学の基礎をつくったことである。

139pそれと同時に、彼は、人間が人間の本質から疎外されている状況を、不安や絶望という概念で持って記述する1つの人間論を展開したのである。

140p実存主義的視点の例
プラトン:疎外への転落→本質への復帰/
キリスト教:堕落→救済

148p実践的独我論

150p自然を技術的にコントロールすべく有効に働く機構とか、人間を支配するための精密な心理学的コントロールとか、急速に発達しつつある社会の組織的コントロールとか、こういったコントロールによって作り出されている安全装置は、きわめて高価な代償を持って買い取られたものなのである。その代償とは、人間、すなわちこれらすべてのものがその人間のための手段として発明されたところの人間が、これらの手段にかえって奉仕せしめられる1つの手段と化したということである。

151p-152p
それは、あるボヘミアン哲学者が発明したものでも、ノイローゼ気味の作家が発明したものでもない。またそれは、利益や名声のためになされたセンセーショナルな誇張ともちがうのである。またそれは、否定的なものを病的にもてあそんでいることでもない。こういった要素は確かにその中にはいり込んではきたけれども、その本質はもっと別なものなのである。それは、無意味聖なる不安の表現であり、またその不安をば、個人として生きる勇気のなかへと引き受けようとする試みの表現なのである。

152p人間が作り出した対象物の世界は、その作者である人間をばそのなかへと引き込み、そして人間は今やそのなかで自己の主体性を喪失してしまうのである。

154p絶望する勇気、無意味性の経験、無意味にもかかわらず自己を肯定するという自己肯定、これらは二十世紀の実存主義者たちにおいてあらわとなっているものである。

156pしかし彼自身としては「出口」を持っていた。というのは、彼は「出口なし」ということができるからであり、そうすることによって、無意味の状況を彼自身のなかにひき受けることが可能であったからである。

157pこの彼が異邦人であるのは、どこに行っても彼は彼自身の世界に対して実存的関係を確保できないからである。

162pわれわれが自己自身であろうとする存在への勇気を持つことによって、われわれは罪責を負うのである。

163p「人間の本質とはその実存である」

164p現代のシニックは、彼らの孤独を誇示するためそれを見てくれる人間社会を必要としているにもかかわらず、なお孤独である。彼らは、究極的な意味だけでなく、日常の相対的な意味すら認めない。したがって彼らは簡単にノイローゼ的不安にとりつかれてしまうのである。過度に強圧的な自己肯定や過度に狂信的な自己放棄は、しばしば創造性にかけている人間における自己自身であろうとする存在への勇気の表現形態となるのである。

167p以上の2章は、全体の部分として生きる勇気および個人として生きる勇気を取り扱ったが、そこで示されたことは、前者のラディカルな形態は、全体主義における自己の喪失という結果をもたらし、後者のラディカルな形態は、実存主義における世界の喪失という結果をもたらすということであった。このことはわれわれをして最後のショウの問いへと導く。それは、この二つの形態の生きる勇気を超克することによってその両者を結び合わせるような生きる勇気はあるのだろうか、という問いである。


第6章 勇気と超越—肯定されている自己を肯定する勇気

178p「不義なるものが義とされる」(ルター)→「受け容れられえない者が受け容れられる」
生きる勇気とは、われわれが受け容れられえない者であるにもかかわらず受け容れられているそのわれわれ自身をわれわれが受け容れるという勇気である

179p人間は人格と人格とのかかわりの中に受け容れられるのでない限り、どうしても自己を受け容れることはできないのである。

190p懐疑と無意味に捉えられている人は、そのトラわれから自己を開放することができないのである。こういう人間が求めている解決とは、彼の絶望状態の外で妥当するようなものではなく、その絶望状態の内部で妥当するようなものなのである。
シニカルな言い方かもしれないが、人生にシニカルに対処することがかえって人生の真理に合致するのである。

191p-192pもしもある人が、その経験とは生命力が絶望に抵抗していることだ、というなら、それにつけ加えて本当はこういわねばならないはずである。すなわち、人間の持つ生命力とはその意味指向性に応じて強くなる。無意味性の深遠に耐えうる生命力とは、意味の崩壊の中に潜む隠された意味を知っているからでなければならない、と。絶対的信仰の第二の要素は、無の経験とは存在の経験に依存しており、無意味の経験は意味の経験に依存している、ということである。

198p有神論は無神論を排撃しながらどうしても信仰の状態にのぼりきることはできないものだが、それと同じく無神論もどうしても絶望の状態にまで落ちきることはできないのである。

201p絶対的信仰とは、受け容れてくれる何者かあるいは何者かを持つことなしに、受け容れらていることを受け容れることである。

203p十字架につけられた彼は、彼が信頼していた信頼の神が、彼を、絶望と意味喪失の暗黒のなかに見捨てたときにも、なお彼の神でありつづけたその神に向かって叫んだのである。



205p生きる勇気とは、神が懐疑の不安の中で消滅してしまったときにこそあらわれ出る神に基礎づけられているのである。


「絶望する勇気」というのがいいね




0 件のコメント:

コメントを投稿