2011年1月17日月曜日

「生きる勇気」(ティリッヒ著作集9)読書中 現在87p

「生きる勇気」(ティリッヒ著作集9)87pまで読み進めた。

 著者パウル・ティリッヒ


話は分かりやすいけど、用語が難しい

メモ

第3章 病的不安と生命力と勇気


83p宗教的アッピールに対し熱狂的に反応することは、真実の自己肯定という観点からすれば、疑ってみる必要がある。宗教によって生み出された存在への勇気は、しばしば、自己自身の存在を制限しようとする欲求以外の何者でもなく、またその制限をば宗教の力を持って強化しようとする欲求以外の何ものでもない場合が多い。

84pこれに対し運命と年に対する病的不安は、それをたとえれば牢獄の中の安全とでも言えるような安全性へと駆り立てられるのである。この牢獄に住む人間は、このように自らに課した制約によってもたらされる安全性から離れることは出来なくなる。しかしこのような制約は、現実の十分な認識によって裏付けられたものではない。したがってノイローゼ的病者の持つ安全性とは、非現実的なものとなるのである。彼は、恐怖すべきでないものを恐怖し、安全でないものを安全と感じている。

85p罪を犯し断罪されるということに対する不安や恐怖があまりにも強く、その結果、責任を負うような決断やいかなる倫理的行動も出来なくなってしまうのである。しかし、そのような決断や行動は回避することが出来ない。そこで彼らはその決断や行動を最小限に限定し、その範囲内で絶対に完全であろうとするのである。そしてこの限定された決断や行動の範囲は、それを超えることを促すあらゆる衝迫に対して防衛されるのである。ここに見出されることも、現実からの遊離の結果、罪責意識が置きちがえられているということである。ノイローゼ的病者のモラリスティックな自己防衛は、罪でないものを罪と見誤らせ、あるいはただ間接的にしか罪とはいえないものを罪と見誤らせるのである。そうしながら、人間の実存的自己疎外を意味する真の罪責の自覚や自己断罪などは抑圧されるのである。なぜなら、そこにはそれらを自己自身のうちに引き受ける勇気が欠如しているからである。

87p第一に、実存的不安とは存在論的性格を持つものであるゆえ、これを除去することは不可能であり、これは存在への勇気の中に取り入れられねばならないものであるということ。第二に、病的不安とは、この実存的不安を自己自身へと引き受けることに失敗した結果として生じるものであるということ。第三に、病的不安は、その自己肯定を制限され固定され現実性を書いた基礎の上に立てるに至らしめ、そしてこの基礎を強烈に防衛するに至らしめるということ。第四に、病的不安は、運命と死の不安との関連において非現実的確実性を作り出すということ。第五に、病的不安は、それが病的不安としてはっきりした場合、医学的治療の対象となるということ。


図星です、まさしく図星です!


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