2011年1月16日日曜日

「生きる勇気」(ティリッヒ著作集9)読書中

「生きる勇気」(ティリッヒ著作集9)80pまで読み進めた。

 著者パウル・ティリッヒ


話は分かりやすいけど、用語が難しい

メモ

第1章 存在と勇気
12pソクラテスがうまくいかなかったところで私がうまくいくかどうかはわからないが、それにもかかわらず、およそ失敗は避けがたいとしてもそれを引き受ける勇気は、ソクラテス的問題が今も生きているのだということを示すぐらいの役には立つかもしれない。
21pセネカは、「生きたいとも思わず、また死に方も知らない」人間に目を向けている
23p人間は不安を論証によって克服することは出来ないのである。
24pあらゆる欲望や不安にもかかわらずそれに抗して自らの本質的存在を肯定することは、喜びを生み出す。
37p「病者、老者、または死骸に出会うと、彼らはすぐに言う、『生は否定された』と。しかし否定されたのは、ただ彼ら自身である。生存のただ一つの面しか見ない彼らの目、それが否定されただけである」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)


第2章 存在と無と不安
42p勇気とは「それにもかかわらず」自己自身を肯定することである。
59pもっていないという意識がもっているという意識をのみこんでしまったとき、懐疑は方法的懐疑であることをやめ、実存的絶望となるのである。
65pつまり、無の圧倒的な力を感じるその主体に、それを感じ取るだけの存在が残っているのである
66p絶望は二重になってあらわれる。というのは、絶望から逃れようとして絶望的な試みをするからである。


第3章 病的不安と生命力と勇気
76p-不安が自己肯定の一要素であること、つまりその自己肯定に対し「それにもかかわらず」の質を与え、それを勇気へと転化せしめるところの一要素であることを指し示しているのである。ー
無の不安にもかかわらず協力に自己を肯定することが出来ないような人間は、虚弱な矮小化された自己の自己肯定を余儀なくされるのである。そういう人間は、彼の本質的存在あるいはその潜在的状態における存在ではない、それ以下のものであるような自己を肯定する。
77p普通の人間とは違ったこのような病的人間が、大衆やイエスの弟子たちすら持っていなかった洞察のひらめきを持つことがありうるのである。
文化史が証明しているように、神経症的不安がしばしば、普通の人間の自己肯定の壁を突き破って、正常な状態では隠されている現実の真相を開示するのである。
78pノイローゼ的人格は、無に対するその大きな感受性のゆえに、したがってまたその深刻な不安のゆえに、固定されたーたといそれが制約され非現実的なものであれー自己肯定にしがみつく。それはいわば城であって、彼はその中に閉じこもり、現実からであれ精神分析家からであれ自分の中に入り込もうとする攻撃に対しては、あらゆる心理的抵抗の手段を持ってその城を守るのである。

自分が読んでるのは「生きる勇気」と「愛・力・正義」が収録されてるティリッヒ著作集9巻だけど、平凡社からも「生きる勇気」のタイトルで本が出てる


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